校区紹介

荊波神社(うばらじんじゃ)
境内には、大伴家持の歌碑が建立されています。

やぶなみ   里に宿借り春雨に
隠り障むと 妹に告げつや (俣田野)

○ 利波臣志留志   有史時代に入って北陸地方は人皇第10代崇神天皇の10年(西暦88)9月、「大彦命を北陸に遣わす」の記事(日本書紀第5)を以て史上に現われた初めとする。次いで、13代成務天皇の5年(135)(ほぼ4世紀の前半)市人命を高志の国造に、大河音足に尼(竹内宿弥の孫)を伊弥頭の国造に賜った旨「旧事本紀」などに出て来るのが射水の初見である。また「古事記」によれば、第7代孝霊天皇の次子日子刺肩別の命が、後の高志の利波の臣や、越前角鹿(敦賀)の海直の祖であるといわれ、越中や越前に下られたのかもしれない。後に天平19年(746)東大寺大仏鋳造が始められる。利波臣志留志は、この日子刺肩別の末孫といわれ、天平時代にはすでに此の越中において有力な存在となるまでに成長していたものである。

○ 荊波神社の草創

福田村荊波神社の由緒によれば、元正天皇の霊亀元年(715)「越中国福田原は清所なり」とて荊波神社が勧請され、邇々杵尊、大己貴命(大国主命)の二柱を祭神としたと伝えている。神社や寺院の由緒書きはずっと後世になって書かれたもので、そのまま歴史の真実を示すものとは言えない。元来後世見られるような殿舎を構えた神社は、相当後になって建てられたもので、初めはごく素朴な神事が山、川等の自然物や、または森林、樹木、自然石の類に神霊の降下を仰いで行われたものである。、地方村落の支配的地位についた氏族の守護神(氏神)として、その氏の祖先が多く祀られるようになり、神社も建てられるようになった。そのころ越中砺波郡の最大の実力者利波臣では、氏の祖とされる日子刺肩別命を祀る荊波神社を建てるに至ったものと思われる。そしてその地は万葉集に出てくる「荊波の里」であったであろう。

○ 式内社 平安時代に入って150年余、醍醐天皇の延喜5年(927)12月藤原忠平らによって延喜格式が奏進された。その「延喜式」において全国の主な神社の名が列挙された。越中国に34座があげられたがその内砺波郡には高瀬神社、長岡神社、林神社、荊波神社、比売神社、雄神神社、浅井神社の7座がある。これら延喜式に記されている神社は所謂式内社として爾来神社の格式を表すものとされ、それら式内社は今日どの神社にあたるものであるかが、いつも問題にされてきた。この福田地域内の荊波神社が果たして延喜式奏進当時のものであるかどうかが当然問題とされる。

○ 荊波神社

この砺波両郡の地に古来荊波神社を称するものに大体4社或いは5社が数えられている。即ち東砺波郡栴檀野村池原(今砺波市)、西礪波郡西野尻村岩木(今福光町)、同北蟹谷村臼谷(今小矢部市)とこの福田村北島(今高岡市)の4カ所と、更に宮島村矢波(今小矢部市)に鎮座する神社である。近年刊行された「砺波市史」や「福野町史」には大きく取り上げて、何れもその地内の池原や岩木の神社がそれであると主張している。式内等旧社記」には荊波神社として宮島郷矢波村のものを挙げ、白山神社と称すと記している。

○ 利波臣と荊波神社

荊波神社は元来高志の利波臣の祖日子刺す肩別の命を祭神とするものであったが、千年余りの間、各地に荊波神社を称する宮も幾多の変遷を辿って社名を変えたり、祭神をかえたりしてきた。それらの変遷を越えてもとの姿を考えれば、荊波神社は利波臣志留志が砺波郡に勢力を振るっていた当時(天平時代)利波臣に由緒の深いところにこの宮を創立したものであろう。神祇信仰、祖先崇拝の心が厚かった時代だけに、その地方に勢力を伸ばすひとつの手段として、自らの祖先を祀る神社を創立し、祭祀を行うことによって自らの威を示そうとしたことが考えられる。従って荊波神社も唯一ケ所だけに建てられたものではなくて、いつのまにか何ヶ所かに建てられたものと考えてもよかろう。池原や岩木などには相当の根拠があるらしいが、1ケ所に限定することは難しい。

○ 荊波神社の変遷

利波臣志留志の一族とその末孫は天平時代から平安時代延喜年間にかけて凡そ1670年の長い間当地方に勢力を張っていたことが知られるが、やがてその後継に勢力が衰え、社会の推移と共に氏の神としての性格が薄れ、荊波神も地縁的な産土の神と変わって行く。各所にあった荊波神社もまたその土地に応じて変遷していった。

比較的長くを称していた砺波市池原の宮も、文政年間には自由宮となり、昭和21年にいたってもとの荊波神社に返った。福光町岩木の荊波神社は、承応2年(1653)にはすでに富士権現とも称し、小矢部市臼谷のは八幡宮、矢波村のは白山権現と称し、ここ高岡市上北島の荊波神社は、最も古く鎌倉時代福田荘が叡山好法院の寺領となるに及んで、山王七社の第6位上禅師社がここに勧請されたものと思われ、江戸時代には専ら福田惣社十禅寺大明神として特殊な信仰を地方に植えつけた。そしてこれが荊波神社に返ったのは明治3年(1870)になってからである。

上に述べたように、荊波神社の名称を最もよく伝えているのが池原の神社であり、ついで岩木の神社である。そして福田村北島の神社は明治2年に榊原神主の運動によって荊波神社の名が復活したと云われるのみで、それ以前の古い文献では福田の社を荊波神社と明記した確実な資料は見当たらない。古くからの伝承は全くこれを無視すろことはできないであろうが、名称はともかく少なくても中世に十禅師社が勧請されたであろう当時から郡内有数の大社であったことは疑う余地がない。さればこそ、文禄2年(1593)8月5日の前田利長書状及び同年10月14日のますやまさいしょう(増山宰相、前田利家女婿中田宗平光重)の書状で、同社の神主榊原駿河に対し加賀藩主は諸役免除の恩典を与えて子孫のために祈祷を命じたのである。

参考:「南条 -歴史と教育-」百周年記念事業実行委員会」S49/11

少彦名神社の盤持石(すくひこなじんじゃのばんもちいし)
 昔、力自慢の男たちは、この石を持ち上げては力比べをした。それは、農村の娯楽の一つでもあった。向かって左から42貫(158kg)、31貫500(118kg)、35貫(131kg)の重さがある。盤持石は、荒見崎の宮川神社の境内にも一つある。

参考:「南条 -歴史と教育-」百周年記念事業実行委員会」S49/11

五十玉用水(いかだまようすい)市野瀬~西藤平蔵~荒見崎~石名瀬~羽広~
 この用水は、市野瀬に水源を求めて西藤平蔵、荒見崎、石名瀬、羽広、宮田町、瑞穂町、波岡、下窪、四谷の広汎な地域の田畑を潤しながら、小矢部川へと貫流している。用水を農耕用に利用する集落は、西藤平蔵、佐野、木津、石塚、上北島、和田、羽広、早川、波岡、横田にわたっている。

◯ 用水の起源

仏教文化が開花した奈良朝の天平感宝元年(749年)に東大寺を造営するため、墾田が行われた。本流域にかかる開墾状況を現すものとして、俣田野開田図には、祖父川に合致するとみられる水路とともに、複雑な水路が描かれており、その一系の水路が五十玉用水に合致すると考えられている。

もともと俣田野一帯は、豊富な地下水が湧きだしていたため、これによって新田が拓かれたと思われる。

近年まで、佐野地内の紅屋集落の地先に「光釜」といわれる湧水池があったが、このようないくつもの釜がつづりあったものが、この用水の水源としてきたものといえる。

◯ 用水のなりたち

この用水が、今日の原形を保つようになったのは、江戸時代の初期頃である。

それまでは、佐野、横田付近は広漠とした原野であったが、そこに小矢部川の流れがあることから、この川の水を利用して原野を開拓しようと試みられたことであろうが、水位が低かったため、利用されなかったものと思われる。

そこで田畑に十分な水を引くためには、他から水を求めるための、用水を設ける方法を考えなければならなかった。それには、庄川からの引水や湧水で、有り余る水を排水していた市野瀬部落に水源を求めた。

しかし、用水路をつくるには上流の農地を通過することになるので、地元の了解はもとより、農地の減少を最小限にするために用水路幅は狭くして、下流の農地を潤すだけの流量を確保するために苦心が払われた。また、農地の減少を償うために江代米(補償費)や、代替地などの要求にこたえなければならなかった。

その結果、用水が通過する各集落の農地の犠牲を少なくするために、境界線沿いに掘削したので、用水路は曲がりくねったものにならざるを得なかった、この厳しい条件の中、先祖たちは、約十数年の歳月をかけて切り拓き、完成した用水は、延長10kmにも及び、その労力と経費は、土木事業として莫大なものであり、先人の苦労が忍ばれる。

-参考-

昭和25年~ 玄手・五十玉改修工事 記念碑は玄手川(排水)五十玉川(用水)の分岐点(市野瀬)に建立。

昭和45年~ 県営事業として三方コンクリートの用排水工事が始まり現在 に至る。

参考:「南条 -歴史と教育-」百周年記念事業実行委員会」S49/11

和田佐助(わだのさすけ)
○ 義民佐助

福田村佐野の肝煎に佐助が出た。その生まれた年も場所も、また家柄も不明であるが村の有力者であったことは間違いなく、佐野西光寺の檀家惣代として、同寺の親鸞上人の御影像を寄進している。

佐助は同村の5人と上北島の1人、更に隣の射水郡北島の1人と、7人で協議を重ね、近来人馬等の往来の盛んになったこの北陸道筋に1つの町を作ろうと謀った。そこで慶安2年(1649)8月26日、町を作る嘆願書を高岡町奉行所に提出した。

町奉行所は、この願いを加賀藩の家老に伝え、聞き入れられると早速、佐助たちに許状を持って伝えた。この許状の日付け9月15日が、和田新町発足の日とされている。

この町は、北陸道が祖父川を渡って高岡へ入る少し手前にあり、その頃から、金沢との人馬の往来が盛んになっていた。現在の和田上町、中町が砺波郡領、和田西町、松原町が射水郡領で、1つの町が2つの郡にまたがる例は大変めずらしいそうである。

現在、和田の町には、善宋寺と西光寺の2つの寺があるが、この寺は他所から移したものであり、これをとりもったのも佐助である。昔は町作りが始まると決まって、寺院を招いたものだそうである。

○ 和田佐助碑と処刑あと(和田佐助の碑)

佐助は1663年隠し田の罪で処刑されたが、佐助の行いが私利私欲のためでなく、村の人々を救うためであったことが殿様の心を動かし、明治になるまで、地子米、地租免除とされたそうで、人々は彼の遺徳を忍び、町立てが許可された9月15日(現在は10月15日)に「佐助祭」をして祝っている。昔は家々で佐助の好物だったいもがえ餅を作り、軒先に行灯を掲げて祝ったそうだ。行灯には、仏様の絵と佐助の法名「浄海居士」と書いたそうで佐助の死後300年を経た1958年(昭和33年)に和田中町の神明宮境内に石碑が建立され、遺徳を後世に伝えている。

○ 三枚橋の由来と佐助の誤伝

佐野福田村の肝煎である佐助が和田の村を救うために、隠し田の罪を背負い、張付がとりおこなわれた。刑の執行をとり止める金沢城から急使の乗った馬が、祖父川に架かる橋板3枚目を踏んだ瞬間、間に合わず刑が執行されたという。それで三枚橋というのはあまりにも出来すぎている。

また、死刑が決まった者を刑の執行間際に判決を取り消すなんてことはない。

更に、サンマイというのは焼き物、火葬場のことである。所謂三枚橋は近くに刑場があり、墓地或いは火葬場があったのだろう。全く史実にないことである。

参考:「南条 -歴史と教育-」百周年記念事業実行委員会」S49/11

紅屋の光釜(べにやのひかりがま)
 光釜とは、紅屋の西の方にあった。直径は5メートル余りあり、深さは底知れずで、水はとても美しく澄み、砂がむらむらと左右にいつも動き、水の湧いているのがよく分かった。雪の明けには、ふきのとうやねこ柳をはじめ四季の草花がどこよりも早く咲き、小魚も年中釣れ、近くの国道を走る他県の観光バスも光釜のいわれを語って走った。
昔、ここに最大寺というお寺があった。ある日この寺の女中が、池でご飯の釜を洗っていると、手を滑らせてしまった。あわてて拾おうとして、そのまま池深く沈んでしまい、蛇に変身したといわれている。それからは、美しいがまの底には、いつも落とした釜がピカピカ光っているのが見えたので、光釜と名付けられた。

この池は、城端の縄が池とつながりがあるともいわれている。城端のお寺にお詣りがあると、必ず美しい女の人が現れ注目の的だった。そして、この女の人の座席の後は、いつもしっとりと濡れており、光釜の蛇だという言い伝えがある。また、この光釜に石を投げると雨が降るとか、この付近の田んぼに仕事へ出ると雨が降るなどの様々な言い伝えもある。

鎌田家の先祖が、ある夜、不思議な夢を見た。光釜の石を三個拾ってきて大切に奉っておけば、家も栄え、村も栄えるという夢のお告げだった。先祖は、あの深い光釜の中の石など拾えるはずがないと思ったが、早速行ってみると、昨日まで溢れんばかりの光釜の水が一滴もなく、一面石原となっていた。先祖は、お告げの通り美しい石を三個拾って、淵へ上ったところ、元通りがまいっぱいの水がたちまち溢れ、付近の川へ流れていった。それ以来、この三個の石は鎌田家の家宝として、代々伝わり大切な石として奉られている。

参考:「南条 -歴史と教育-」百周年記念事業実行委員会」S49/11

畔地蔵(くろじぞう)
 荒見崎地区には、畔地蔵様と呼ばれる地蔵様が祭られている。昔は、田んぼの畔に安置されていたことから、畔地蔵堂に他の地蔵様と一緒に祭られていた。現在は、墓地の守り役をしている。

昔、村の某家の主人に、腰に一刀をさしている者がいた。碁を打つことが好きで、夜毎笠島宅へ碁を打ちにいった。ところが、毎夜のごとく主人の後をひたひたとついてくる招待のしれない者がいた。きっと狐か狸の仕業に違いないと思った主人は、体をひらりとかわして、一刀のもとに切ってしまった。(主人を守ってくださる地蔵様とも知らず)翌日の早朝、主人は昨夜の場所に行ってみると、血痕が道に沿って点々としていた。たどってみると、畔地蔵様の所にたどり着いた。不思議に思い地蔵様を見ると主人は驚いた。自分が昨日切ったとおり右肩から左胸にかけて切られていた。区画整理の時にセメント等で傷を治した後が今も残っている。

参考:「南条 -歴史と教育-」百周年記念事業実行委員会」S49/11